Segments / Ways of Listening


 

セグメンツとは

 セグメンツとはミュージシャンの木下和重が始めた、「聴く」ことを問い直す試みです。

 木下は実験音楽のフィールドで、その考えに基づいた作曲・演奏や、音楽家/非音楽を問わず、聴衆が参加するワークショップを行ってきました。それは実験音楽の文化的な読み解き方のレクチャーでも、演奏指導でもありません。音楽を時間という単位に純化して行う、言わば知覚・認識行為のエクササイズです。
  音が鳴り、消える過程を時間という長さを持つセグメントとして捉え、その集積が構造を成し聴き手に浮かび上がる。これがセグメンツの認識に対する基本的な考え方です。セグメンツとは、端的に言うと時間構造のモデルであり、それを認識基盤として聴き手に「聴き方」を提案する取り組みなのです。
 「聴く」という行為はその瞬間における事象を逐次的に処理する性質から、時間に最も根ざした知覚と言えます。
セグメンツにおいて「聴く」とは経過する時間の中で過去との差異を捉えることであり、聴き手とは、知覚を通して様々な事象をセグメントとして分節し、構造化する主体的存在なのです。
変容をきっかけに世界の「差異化」に取り組むこと、聴き手その人が、独自の認識世界を構築していくこと、その体験がセグメンツの目的です。

 一般に音楽を聴くとき、聴き手は「メロディ・ハーモニー・リズム」といったフォーマットに収まった作品を鑑賞します。しかし、全ての聴き手がこれらの要素の認識に長けているわけではありません。また、音楽を構成するのは必ずしもこの18世紀に西洋で提唱された三要素だけではありません。全ての音楽にとって、共通要素となり、根源的な基盤となるのは「時間」です。セグメンツはこの「時間」にフォーカスし、セグメント化という分節操作により、構造を表出させます。音楽は、ここで還元的に「音による時間の空間化」と定義され、セグメンツは音楽の「構造を聴く」ことを聴き手にもたらすのです。
 こうした音楽の時間性・構造性への着目は、ジョン・ケージのアプローチを引き継ぐものです。認識世界を拡張するセグメンツのアイデアは、現代音楽との関わりから生まれました。

ジョン・ケージ以降の音楽

 20世紀中頃、ジョン・ケージは、作曲家と作品の関係を見直すことで、音楽作品を流動的に位置づける試みを行いました。
演奏家や記譜法、時間の考察、演奏される場所のコンテクストが、作曲家と作品の間に流れ込み、音楽の新たな土壌を育んだのは周知の事実です。以降、音楽はあらゆる事象を広大な範疇として取り込み、「聴く」対象は格段に広がりました。こうした革新のきっかけが、ジョン・ケージの「作曲家とは何だろう?」という問いかけであったのは、大変興味深いことです。
 これに対し木下は、ジョン・ケージを仰望しつつ、音楽の新潮流に押し流されてしまったものの一つに、「聴き手」の存在を挙げます。ハイ・カルチャー化した現代音楽の世界から疎外された多くの門外漢、「どう音楽を受け取ればいいのか?」困惑する普通の人々のことです。木下は、音楽家がなおざりにした聴き手を救う、聴き方を幇助する努力が必要だという考えに至ったのです。

 

音による時間の空間化

木下は、作曲家に対するもう一方の極である聴き手の考察を始めました。
音楽を聴くとはどういうことかを考えたとき、着目したのは音楽が存在する時間と、そこに位置する自己との関係性です。

よく「美術は空間芸術、音楽は時間芸術」などと言い表されるように、音楽は時間の中で体験される現象です。
そして時間という次元のなかで、音やそれを聴く主体である自己が本当に「在る」と言い切れるのは、過去でも未来でもなく今現在というその瞬間だけです。
形態的なメタファーを用いて描写するなら、時間という無限のライン上の、過去と未来の境目に、点としての自己が置かれているのです。
音(あるいは無音)は未来の方向から非知覚的な見えない状態でやってきて、自己の存在する現在点に重なったとき、はじめて知覚され、現れ、瞬く間に過去の事象へと移り変わっていきます。
この空間上では自己と音は、その重なりという「出来事」によって存在します。
逆に言えば、誰にも聴かれない音も、何も聴かない聴き手もここでは存在を意味しません。

そして、この「出来事」を契機に時間のラインに分断操作を加えると、生じるのが「セグメント」です。
このセグメントの生成は、認識行為としては「その長さの時間を聴いた」ことを意味します。
セグメントは時間という長さを持ち、時間の経過とともに過去方向に集積していきます。
現在という瞬間が瞬く間に過去となるように、今聴いた音は聴き手の中で過去の記憶へと変わります。
そしてセグメントもまた過去という記憶の領分に、集積体として構造を成していきます。
その意味を問えばここで、出来事の記憶がその前後と「差異化」され、構造として示されたのです。
このセグメントの集まりが「セグメンツ」であり、聴き手が時間を手がかりに「音楽を構造として聴く」、認識過程の空間的表現なのです。

セグメンツにとって自己とは、聴き手として未来に構え、世界をセグメントとして断ち切っていく、必要不可欠な刃先となります。
その背後には、聴き手独自の認識世界が構造として立ち現れていくのです。

 

認識のエクササイズ

木下はセグメンツの考えに基づいた作曲・演奏活動とともに、この「構造の聴き方」の広く実践的なワークショップ化に取り組んでいます。
ワークショップの対象者は、音楽家/非音楽家、楽器等の演奏経験を問わずに行われます。
そこで参加者は木下の用意する「曲」を通して、「聴き方」のエクササイズを体験します。

曲ごとに提案される「聴き方」は様々で、セグメンツが認識へのアプローチを発展させていくのにつれて、今も広がっています。
『bell』は、セグメンツの導入となる曲で、音の生成消滅や時間の長さに焦点をあてています。
複数の参加者が声を出す『voices』では、現在を基点とした差異の発現を体験します。
音を離れて構造に目を向けた曲では、タイムコードのみの楽譜から現象に還元する『red flag / white flag』や、
時間感覚の身体性へアプローチする『四肢』、『凸凹凸凹』、
光を使って空間に時間構造を投射する『lights』、『candle segments』などの曲があります。

セグメンツには、こうした認識手法や得られた構造を還元的に展開する他に、記憶や想起といった認識と結びついた精神の働きへのアプローチがあります。
例えば『countdown segments』は、多数の参加者が異なる数のカウントダウンを繰り返す曲です。
この中で参加者は、他の参加者の発声に惑わされながらカウントダウンし、今発声したばかりの数を頼りに次の数を想起します。現在、過去、未来と、意識の先の目まぐるしい変化がこの曲の特徴です。
精神の働きの中で、記憶は生成され、参照され、忘却され、修正され、未来を想起します。
認識過程においても、現在・過去・未来は互いにもつれ合い、セグメンツの構造も再構築され続けるのです。
こうした精神の働きによる再帰的な構造化は、「聴き手」独自の認識世界の構築を目指すセグメンツにとって、歓迎すべき有効な手段と捉えられています。
心的要因によるセグメンツのアプローチはさらなる探求が続いています。

セグメンツのワークショップでは、木下の曲は「聴き方の提案」として示されます。
参加者はそこで、「時間の長さによる構造」に展開される、多様で柔軟な認識対象、手法、表現形態を体験します。
そしてセグメンツという認識基盤と、自分の認識世界を構築するアイデアを体験とともに持ち帰るのです。

 

聴くこと

音楽に限らず芸術作品を、どう受け取っても良いということと、どう受け取れば良いか分からないということには、大きな断絶があります。
実験音楽のフィールドから提唱されるセグメンツは、「聴き方の提案」という形で、この溝を埋めようとするものです。
それは、聴き手独自の受け取り方へと導く道標を示すことであり、音楽のあり方同様、聴き手の個性を尊重することです。
木下にとってセグメンツの構造とは、認識の統制を目指すためにあるのではなく、その生成プロセスにおいて、聴き手の個性を見いだすことに価値を置いています。
同時に、現在の構造からこぼれる事象さえ、その発見を喜び、探求し、あらたな認識世界への還流を目指すのです。

聴くという行為は、それが時間に根ざすが故にある種の所在なさが伴います。
時間という次元の中で、聴き手は身体を現在に縛られ、次々に現れる音や周囲の環境の変化に惑わされ、記憶や予想といった様々な想念にその意識は翻弄されます。
セグメンツは、認識過程に「構造」といった空間的メタファーを導入することで、聴き手の立ち位置や、目の前の事象、意識の中に現れる表象を相対的に位置づけします。 
これにより聴き手は、広大な認識世界で、時間や意識、環境や表象といったフィールドを、さまようことさえ楽しめるようになるのです。

セグメンツは時間構造を認識基盤とするため、時間の中で起こる様々な変容を、個々が差異化し構造化するのを可能とします。
聴くことは、「構造を聴くこと」となり、音に限らず身体や意識を通したあらゆる事象が認識の対象となります。
どう聴くかは、自分を位置づけ、自分の認識世界をつくることであり、そしてそれは、そのまま自分自身の表現となります。
「聴く」とは、自分らしく世界と向き合うことなのです。